肩こり腰痛の本質
人を構成しているもの 人を構成しているものは、物理的な肉体。
その肉体に指示命令している、脳。 脳は心や精神とイメージできます。これらが、それぞれが単体でまた、密接に連携して活動している分かりやすい例が、脳死です。 死の定義 肺機能が停止 心臓機能が停止 脳機能が停止 これで人は死んだ。と定義しています。
心肺停止状態では、人はまだ死んでいない。したがって、心臓マッサージなどを施すと、蘇生することがあるのはよく知られている事実です。
脳機能が停止しないと肉体は甦ることがあるということです。
では、この逆の脳死とは
専門的なことは分からないので、ウィキぺディアから参照します。
医療技術の発達により、脳の心肺機能を制御する能力が喪失していても(そのため自発呼吸も消失していても)、人工呼吸器により呼吸と循環が保たれた状態が出現することとなった。 すなわち、脳幹機能の停止#本来ならば心肺機能が停止する筈だが、人工呼吸器により呼吸が継続される心臓機能も維持される。 とこのようなことらしいです。
要は人口的に生をたもたれている状態といえます。 人の生死をどう定義するか、ここが議論されているところなのですね。
脳とは
進化論が正しいと定義するなら、私たちの生命の記憶を貯蔵している大元になるところ。
人と、チンパンジーの違いは、遺伝子レベルで、ほとんど違わないと聞いたことがあります。
言い換えるとこの差が、人とも言いかえられるのかもしれません。
では、人を個人レベルで比較すると、遺伝子レベルでは、100%に近いくらい同じなんだろうと想像できます。ただ人種によっては、違う箇所がありますが、それら以外はおそらく同じなんだろうと想像できます。
しかし、日ごろ自分と他人を比べると明らかにちがいますよね。
これが、見た目の差というよりは、脳の差ということなのでしょう。
もっと大雑把に言うと、物事をはかる基準や思考、経験、経験や学習による常識、などの違い。もっと大きく言うと、認識そのものが個人によって違うからでしょう。
一例、「ルビンの杯」という絵は有名ですね。これはこの絵を見た人がこの絵をどのように解釈するかという、心理テストにつかわれているものらしいのですが、一度くらいは目にしたことがあると思います。 単純に、「知っている」人の顔もしくは、杯の絵のどちらかに見えるえでしょう。ということではないのです。
この絵の事実を、あなたそのものが、この場合絵をどう認識しているか。ということ。
この認識は、物理的なものから、抽象的物事まで、あなたはどう認識できていますか? というメッセージをこの一枚の絵で伝えているのです。 少なくとも、この場合は2つのものに解釈をすることを情報として知っています。ではこれ以上の想像は浮かんでこないでしょう。確かに、意識の向け方でこの絵は、杯や向かいあう二人の横顔にみえるでしょう。
上記に記載した通りです。これが、情報として、知っている状態です。
これは私たちが、この絵の情報を既に理解しているから、二つの見方ができたにすぎないのです。 ここで重要なのは、2つのものに見えるようになる。事が重要ではなく、情報そのものが重要ということです。
この情報とは、すべてのことに、この情報を適応させていく習慣をつくる。持つということですね。
絵を横に向けたらどうでしょう?またひっくり返したら、どのようにみえるでしょう。 ここから脳を心として定義すると、この心は、このように、大変自分勝手に物事を認識するようにできているのかもしれません。
では、この心の働きは、どのようにして作られてくるのでしょう?
このルビンの杯でも解るように、最初は、杯にしか見えなかったものが、また、人の顔にしか見えなかったものが、情報によって両方を認識しだします。 心には、この偏りがあると言う事です。偏見?すなわち、認識した事実を次回も繰り返し同じように見ようとする基準を持っているらしい。したがって、新たな情報を得ると、同じものであっても違ったことと認識できるのです。この辺の解りやすい例は、トップが変わると、同じ状況下であっても、危機を乗り越えられたりられなかったり。
したがって、私達はある意味、何かしらの基準のみで、その時々の判断をしている事になります。日々一生懸命に考えているようですが、ほとんど、おおもとの判断基準は変更されていないまま、過去データのなかから、その時々の似た事例を探し出し、瞬時に、同じような選択をしているのでしょう。
このことが解りやすい例として、詐欺にあう方は、何度も詐欺にあうらしい。という事実です。これも、上記を是とした場合、実にわかるような気がします。
ギャンブルで負ける方と、利益を上げられる方がいるように、これは、ある意味必然として負けル方は負け思考で時々の勝負をしているとも考えられます。FXや株などが良い例かもしれません。これらは、そのやり方を確立してその通りにできれば、利益を積み上げられる方法は良く紹介されています。只それを基にして行っても、実際に行う人の思考が、負け思考だと、負けで終わってしまうでしょう。
また、洋服を購入する場合なども、同じような判断基準で購入しているので、違うデザインのものを買っているようで、なぜか同じようなものがタンスにしまわれていて、気に入って購入したにも関わらず、1度だけしか袖を通さないこともあるのは、大本の思考パターンが1パターンを繰り返しているからでしょう。 これが心を作っている脳の働きです。
では脳とは
生命の誕生からの蓄積している情報そのものですね。
人間として枝分かれした脳が、情報を蓄積してきた年数を考えても、400万年前とか600万年前とか・・・、その定義で誤差はありますが、 これほど長い間の情報をすべて蓄積しているのですね。 そして、私たちは、過去から、現代のこのまさにたった今。ここまでの情報を取り出しながら、このせつなを判断しているだけなのですね。
簡単に言うと、私たちの判断基準は、個人が蓄積している、脳の中の過去データと経った今を照らし合わせているにすぎなく、適合している事例を参考に、同じ判断を繰り返しているといっても過言ではないでしょう。
何が言いたいかというと、判断基準が変わらない限り、また、自分を変化させるためには、この基準がかわらないと、同じ事象しか起こらない。ということ。 そういうことなのです。
先ほどの「ルビンの杯」の絵を何の情報も持ちえない人には、おおよそ、その人は、どちらか一方だけの絵を見続けることになると言う事です。
これが脳、心の働きだと、わたしは自分の体と、現在の仕事柄、人の体を通して感じて実感します。
人が変化するとき
人は変化するときが必ずあると思います。
思春期
人との出会いや別れ
感情が大きく動いたとき
人との出会いと別れ。
人に大きな変化をもたらす一つに、他者から必ず影響をうけます。思春期は生理的なこと以外に、個人の世界観が、それまでとは違った環境になるのも一つの理由かもしれません。 少なくとも、人の出会いと別れが、個人に影響をもたらすことは紛れもない事実でしょう。
この影響が、その人の判断基準の幅を広げるのか?もしくは狭くするのかは、それまで個人が判断している基準で複雑に変化すると想像できます。 したがって、結婚や、離婚で、人生観が大きく変わるのは、想像するだけで理解できると思います。ただ、これらの変化でも、変わらない人もいます。 これも否定できない事実でしょう。
少なくとも、人の変化に影響を与えているのは、環境や人そのものである。その影響を判断しているのは、個人の変化しにくい判断基準ということになります。
個人の大事にしている判断基準とは この個人の大切にしている判断基準は、個人が大切にしているので、ここを手放すことはまずありえないのです。 なぜなら、これを手放すと、個人でいることが、不安、恐怖、その先が想像できない。の感情と結び付くからです。脳、心は、ルビンの杯でも解るように、安定を求め変化を求めていない。したがって、新たな環境になるという事は、データがないので、不安になるのです。未知の世界を経験するわけですから、人の脳に蓄積されているデータはありません。したがって不安や恐怖と言う理屈も整合性が取れています。
ここを、不安と判断するか、期待と判断するかは、大本の基準という事ですね。したがって、不安と判断した場合は、過去データから、新たな事にチャレンジする事はしないようになるでしょう。当然、 この大本の基準が、期待と判断した場合は、新たな事にチャレンジしてみようと考えるでしょう。
クリスタルキングの『大都会』の一節に、♪期待と不安が一つになって、過ぎゆく日々などわからない。とあります。
この件は正しいと思います。不安と、期待の感情の出所は同じであって、それを認識している心の基準が違うと言う事ですね。まさにルビンの杯なのです。 したがって、チャレンジする側を選択した場合は、期待、チャンスになる事もあり、また、不安を選択した場合は、それまでと同じ、安定となるのです。
そして、人は年を重ねれば重ねるだけ、経験値が増えていきます。この経験値は、大本のデータを基準に作り上げたデータが増えると言う事実です。 したがって、チャレンジする人のデータは、基本的にチャレンジするデータとして、蓄積されて、安定を求める方のデータは安定のデータとして蓄えられることとなります。
少し話は飛躍しますが、ギャンブルをチャンスとして仮定した場合、安定を求める方の中には、このデータはまず蓄えられないので、どんなに確立の良い好条件のギャンブルでも、やめておこう。の思考になるでしょう。 この様に、心とは、現状維持を常に求める選択をしている。といえます。
要は、心が常に平穏無事を求め変化を求めない。これを基準にしているので、新しいことにチャレンジする方と言うのは、そのほうが心が平穏無事なのでしょう。 しない方は、しないほうが心が、平穏無事ということなのです。平たく言えば、楽な方を選択しているのです。
このように心は作用している様な気がします。なぜかは、繰り返しになりますが判断基準がすでにできているからです。
では、その大本の基準はどうしてつくられたのか?
これが習慣ということでしょう。 この習慣とは行動ですね。行動が思考を作っているともいえます。 私たち日本人は、日本人であるから、日本人ではなく、日本人としての習慣を脳レベルで記憶行動しているからといえるでしょう。 したがって、ハーフの方などは、脳レベルでは深い部分で違った文化をなんとなく記憶しているというかたもいるくらいです。
個人レベルの基準は、一般的には、その個人を育てている親の基準が受け継がれることになるでしょう。
これらも無条件にそういうものだとして、その個人の判断基準になります。 この判断基準をルールとした場合、自分が所属するコミュニティーのルールがその個人の判断基準として上書きされていきます。
このようにして、個人の判断基準というのは、私たち個人が所属している基準ということを元にしているということが理解できます。 では、あなた個人の本当にあなた自身の大切にしている、大元はなんですか?というと、この、所属している判断基準が邪魔して、見えにくくなっている方が大人になっても多く見られます。
ここの判断基準を間違うと、その判断をしているコミュニティーでの幸せは手に入るでしょうが、個人レベルの幸せは手に入れることはできにくいかもしれないでしょう。 これは、個人レベルで考えると、その判断は自由です。なぜなら幸福感は、上記に示した、「ルビンの杯」の何を見るかということです。 親子間で、意見の対立が生じる場合は、子供は、データが少ない分、個人レベルの判断を優先させた思考で物事を考えているのかもしれません。
この場合、根拠などは当然ありませんが・・・ 一方親は、変化を求めない心で、親が経験してきた、データでそのこの子供の判断をします。この場合、親のデータとは不安を優先するデータがたくさん蓄積されている場合と、期待のデータがたくさん蓄積されている場合で、その子に対してアドバイスする内容が当然違ってくると想像できます。 これも、正誤は付けがたいですが、一般的にはやはり安定を望むのが、私個人の普通の観方です。
この様に、私達の行動判断は、先ず、古い脳が記憶している部分、原始脳があり、・・・その後、パーソナル脳にコミュニティー情報が、上書きされると想像できます。更に、そのパーソナル脳に上書きされたコミュニティーのルールを基に、更に経験データが保存されていくようなイメージでしょう。
思春期は、おそらくこのパーソナル脳が、コミュニティー情報に個人として、矛盾を感じる事で、起こる現象であると想像出来ます。 このコミュニティー情報とは これは上記にも記した通り、コミュニティーの常識と言うことです。この常識とは、そのコミュニティーオリジナルと言う事で、家族、友達、学校、市町村、会社、国とした常識ということです。 思春期でぶつかる矛盾とは、家族レベルもしくは、学校レベルのルールの矛盾が原因だと考えられるわけです。
ここで解るように、私達個人は、本来このパーソナル部分のエネルギーは誰でも持っているのですが、上書きされた情報によっては、それが個人を苦しめる時もあると言う事実なのでしょう。 ただ、常識を持つと言う事は、そのコミュニティーの中で安定して暮らすことができる事も、先ほど記述しています。 したがって、個人が改革改善を求めるのであれば、この常識とは必ず対峙しなくてはならなくなります。
これは、変化する変えたい、その事を願うからです。もしも、常識内で選択するなら、常識通りの安定された現実を見ることが出来る事なのです。
大変、長くなったのですが、そこで、これを踏まえて、肩こりや腰痛と言うものに目を向けても、同じことが言えます。
定義として、病院の検査結果で基準内の検査数値を得、問題なしの結果をもらっていると言う事を前提にします。
この場合、肩こりや腰痛を起こしている原因は、簡単に言うと、起因しているのは何故かの情報を持ち得ていないから、肩こり腰痛の現実しか見ることが出来ない。と言えます。
これを上記ルビンの杯にあてはめると、具現化された肩こり腰痛は、その前の段階で、その様な判断を繰り返し行っていると言う事です。 これは気がつかないから、杯か人の顔のどちらかを見続けているのです。当然です。
ここで、では肩こり腰痛が起因した情報を知った場合、情報認識は誰でも出来ます。
この様にしては肩こりになる。この様な方は、腰痛になる可能性がある。これらは、全て、情報を認識しているだけで、解決にはつながりません。
ルビンの杯の場合、情報をしって、絵をみる見る作業をして、確認できます。イメージもできますが、よりリアルに感じるには、絵を見る作業、行動が必ず必要になります。
肩こり腰痛では、物理的な施術であったりする部分です。ようは行動です。
必ず、知った情報は行動しなくては、現象を変えることはできないのです。
しかし極度の肩こりや腰痛の場合は、この行動が1回では、ほんの少しだけ改善されるだけです。 何故なら、それらを作り上げている時間が、あまりにも膨大だからです。
これもおそらくイメージできると思いうます。 では、この慢性的な肩こりや腰痛は、どのようにすると改善るのか?
答えは簡単です。的確な情報を知り、行動をする。これだけです。 ここで、これを行うことができる人、できない人に分かれます。これが、上記でも示した、安定を望む人、チャレンジしてみようと思える人の差。と言う事です。簡単に言うと肩こりや腰痛を治したいのか?それとも現状維持を続けたいのか?と言う事だけです。
そして、おそらく、間違ったイメージを持たれている方も、この行動へはむすびつきにくいのです。 それが、常識です。
これまで、病院にも行った。施術所めぐりもした。あれやこれやといろんな事もした。何をやってもなおらない。したがって、治らない。 これが、あなたの経験データとして、常識データとして、しっかりと保存されてしまっています。
これをいつも取り出してきて、ルビンの杯を見ているのです。したがって、同じ現象しか見ることが出来なくて、ある意味当然の結果です。 もしも、腰痛方こりを改善していきたいのであれば、あなたは、変化を求めていると言う事になります。 変化はについては、上記にも記したように、これまでの常識枠を超える必要があります。 この場合、先ずは、常識を捨てる。この常識とは、あなたが過去行ってきたデータですが、このデータは一切関系ありません。
なぜなら、しつこいですが、常識の中で改善しているからその枠を超えた変化は期待できなくて当然ともいえます。よって、常識を捨てる、これは変化をさせるための必須条件です。
次に的確情報をしる。的確な行動を続ける。これだけです。 これが、肩こり腰痛を克服できる本質です。 要は、肩こり腰痛になりにくい体をつくるのです。言い換えると、あなたは、数年数十年かけて、肩こりや腰痛になりやすい体を作ってきたといえるのです。 ダイエットをしなくてはいけない体型の方は、ダイエットしなくてはいけない食生活をして来たのです。だから体が大きくなった。 したがって、ダイエットしたいのであれば、変化することを目的にしているのですよ。では、この目的を達成するには、まずあなたが抱いている常識、食べて運動しないで痩せたいの常識を壊す以外に方法はありません。外科的手術をしても、一時的には痩せますが、また食べて運動しないでいると結果はおなじになるでしょう。
思考が具現化すると言われている事です。 これと全く、肩こり腰痛も同じなのは、イメージ出来ますよね。 でも、自分ひとりで、それを行うだけの自身がない。とうぜんです。殆どの方は、運動や食事制限はできるのです。しかし、継続することができないのです。
これが、ダイエットでも肩こりや腰痛でも同じなのです。
ここを継続する一番簡単な方法は、肩こり改善プログラムに参加する事です。
これはここに参加してその行動を行う事に意義があるのです。なぜなら、的確な情報と的確な行動を履行できるのであれば、個人でも可能ですが、殆どの方は、続けられないからです。
要は、数カ月続けて効果がないと、長年の常識『安定を望む心』がそんなことやっても治らないよ。痩せられないよ。って判断しだすからです。 この指示は、ダイエットにチャレンジしたかたなら、必ず経験しているでしょう。また禁煙なんかに挑んだ方も経験していると思います。要は、あなた自身の常識が辞めるように指示命令してくるのです。だから、続かなくなるのです。
したがって、改善するには、その環境に身を投じることが、一番の近道と言えます。ここでは、同じように頑張っているメンバーとも出会えるでしょう。
本当は、頑張らなくてもいいのですが・・・する事をするだけで改善に繋がってくるようにプログラムを作っています。 あとは、その場に来ればいいだけです。 実に簡単です。また、理にかなっています。
したがって続ける事もできます。続けると、改善に繋がります。 改善されてくると、更に続けられます。
是非参加してみてください。
これは、肩こり改善プログラムとした内容で作成していますが、要は、何故改善できるかの本質を話しますと、肩こりが改善するのは、二次的なことなのです。その前に、必ず気持ちが変化しだします。心が変化すると、そこから飛躍的に肉体は変化しだします。 したがって、ダイエットへのチャレンジをしたい方にも繋がる心をつくることができるでしょう。
ルビンの杯も、個人が抱えている問題も、会社組織の問題もその舵を握っている人の、心が具現化されているだけと言う事ですね。そして、組織よりも個人の方がはるかに舵は取りやすいのです。